オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍
ヴィリブス・ウニーティス級戦艦




  ヴィリブス・ウニーティス級戦艦は、オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍の建造した、最初のド級戦艦であり、帝国が完成させた最後の戦艦でした。
  ネームシップのヴィリブス・ウニーティスは、24ヶ月の短期間で建造されたため、三連装砲塔を装備して竣工した世界初の戦艦となりました。
  最初のイタリアのド級戦艦ダンテ・アリギエーリも三連装砲塔を持ち、設計と進水はオーストリア艦より早かったですが、竣工はヴィリブス・ウニーティスの3ヶ月後でした。


◎艦名の由来
・ヴィリブス・ウニーティス Viribus Unitis
  皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Josef T 在位1848年〜1916年)個人のモットー(Wahlspruch, 座右の銘)より。
  「合わせたる力もて」の意。オーストリア、ハンガリーの融和を願って付けられました。

・テゲトフ Tegetothoff
  オーストリア帝国海軍の提督、ヴィルヘルム・ フォン・テゲトフ(Wilhelm von Tegetthoff)。(1827〜1871)
  普丁戦争中、1864年5月9日、ヘルゴランド海戦でデンマーク艦隊を撃破。
  普墺戦争中、1866年7月20日に行なわれたリッサ海戦でイタリア艦隊を撃破。
  オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍の軍艦名としては3代目。

・プリンツ・オイゲン Prinz Eugen
  サヴォイ公オイゲンEugen Prinz von Savoien(Eugene of Savoy)。(1663〜1736)
  イタリア、サヴォイ公家の傍系ソワソン伯爵ウージェヌ・モーリスの5子。1683年オーストリア軍に入隊、以後対フランス戦、対トルコ戦にたびたび戦功をたて、最終的には帝国大元帥に昇進ました。
  1683年のヴィーン包囲戦での活躍、1697年9月11日、ハンガリーに侵攻したオスマン・トルコ軍を撃破したツェンタの戦いと、1717年8月21日のベオグラード攻略が有名です。
  オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍の軍艦名としては2代目。

・セント・イシュトヴァーン Szent István
  聖イシュトヴァーン。(969または975〜1038)ハンガリー王国の初代国王。11世紀末に聖人に列聖。ハンガリーの守護聖人。

ヴィリブス・ウニーティス級戦艦 セント・イシュトヴァーン
ヴィリブス・ウニーティス級戦艦 セント・イシュトヴァーン
「Marine-Arsenal SPECIAL BAND 8 Tauchgang um das K.u.K Schlachtschiff SZENT ISTVAN」 出版社 PODZUN-PALLAS-VERLAGより引用。


◎性能
建造:ヴィリブス・ウニーティス スタビリメント・テクニコ/トリエステ造船所(トリエステ)
    テゲトフ スタビリメント・テクニコ/トリエステ造船所(トリエステ)
    プリンツ・オイゲン スタビリメント・テクニコ/トリエステ造船所(トリエステ)
    セント・イシュトヴァーン ダニューブ造船所(フューメ)
設計排水量:20,013.55t(石炭600t、消耗品50%搭載) 満載排水量21,595t
        セント・イシュトヴァーン 設計排水量20,008t、満載排水量21,689t
垂線間長143.0m 水線長:151.0m 全長:152.183m
全幅:27.336m 吃水 艦首:8.59m 艦尾:8.38m
主缶:ヤーロー缶12基(ヴィリブス・ウニーティス、テゲトフ、プリンツ・オイゲン)
    バブコック・ウィルコックス缶12基(セント・イシュトヴァーン)
主機/軸数:パーソンズタービン2基、4軸推進(ヴィリブス・ウニーティス、テゲトフ、プリンツ・オイゲン)
        AEG−カーチスタービン2基、2軸推進(セント・イシュトヴァーン)
機関出力 計画:25,000馬力
速力 計画:20ノット 公試20.3ノット
燃料搭載量 満載 石炭5,600t 重油162t
航続距離 4,200浬/10ノット
兵装:30.5cm45口径 K10三連装砲塔4基
    15.2cm50口径 K10単装砲12門
    66mm50口径 K10単装砲18門
    (1914年より、66mm50口径 K10単装単装砲を12門に削減
     66mm50口径 K10単装対気球砲を2、3番主砲塔上に3〜4門装備)
    47mm44口径単装速射砲2基
    8mm機関銃3基
    陸戦用66mm18口径砲2門
    53.3cm魚雷発射管4門
    (艦首水中発射管1門 艦尾水中発射管1門 第二主砲塔後部両舷に1門づつ)
    魚雷14発
防御:装甲材料 KC クルップ浸炭甲鈑
           K クルップ甲鈑
           SP ジーメンス・マルティン甲鈑
    主舷側装甲/主砲塔間280mmKC
    舷側装甲/艦首及び艦尾150mm〜130mmKC
    舷側中段及び副砲ケースメイト180mmKC
    主砲塔/前楯 傾斜200mmKC 側面280mmKC
    天蓋傾斜部150mmKC 天蓋平坦部60mmK
    主砲塔バーベット280mmKC
    主砲塔バーベット下部 一番及び四番主砲塔280mmKC
                  二番主砲塔160mmKC
                  三番主砲塔260mm〜230mmKC
    主砲塔バーベット 最下部(装甲甲板上) 100mm〜80mmK
    上甲板及びケースメイト上面 装甲15mmSP+甲板15mm
    下甲板/シタデル前後 艦首25mmSP+甲板18mm 艦尾30mmSP+18mm
    シタデル前部横隔壁 下部180mmKC 上部120mmKC
    シタデル後部横隔壁 上部下部共に180mmKC
    前部司令塔 上部側面280〜250mmKC 下部側面150mmKC
             天蓋30mmSP+甲板30mm
             測距塔旋回部 側面30mmK 上面30mmSP
             交通筒150mmKC
    後部司令塔 上部側面250mmKC 下部側面120mmKC
             天蓋50mmSP
             測距塔旋回部 側面30mmK 上面30mmSP
             交通筒150mmKC
    副砲用司令塔 側面180mmKC 上面40mmSP
              測距塔旋回部 側面30mmK 上面30mmSP
    水雷防御縦壁 25mmSP+甲板25mm
    艦底部 甲板25mm+甲板25mm
乗員:1087名 セント・イシュトヴァーン1094名


◎建造経緯
  1867年の普墺戦争の敗戦により、ハンガリー貴族の自己主張をオーストリア指導部は受け入れざるを得なくなり、12月の帝国議会で、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Josef T)の元、オーストリアとハンガリーの均等化、二重帝国化(アウスグライヒ Ausgleich)が進められました。1867年、フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー国王として即位し、オーストリア・ハンガリー二重帝国が成立しました。これにより、旧来のオーストリア帝国海軍は、オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍となりました。
  オーストリア・ハンガリー二重帝国における海軍整備政策は、対イタリア戦を考慮し、それに対抗する戦力の整備とされました。当時の帝国はアドリア海側に長い海岸線、ハンガリー側に4kmの海岸線を持っていました。ハンガリー側も造船所を持っており、海軍の造船計画の一部はハンガリーにおいて実行されました。
  オーストリア・ハンガリー二重帝国の国防及び外交に関する問題は、オーストリア及びハンガリーの両議会が決定権を持ちましたが、海軍が決定した予算案に対し,自領内の問題を優先するハンガリー側がしばしば異議を唱えました。また、当時のオーストリア・ハンガリー二重帝国の主要な敵国はイタリア及び南下政策を取るロシアであり、軍事予算はまず陸軍に振り分けられました。
  その為、オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍は、地中海において、フランスはおろか、イタリアに対抗する軍事力を整備する十分な資金を与えられませんでした。19世紀末まで、オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍の艦艇は他の国のそれに比べると小型で、建造速度が遅い傾向がありました。この為、オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍は次第に時代遅れとなっていきました。

  それにもかかわらず、海軍は有能な士官と技術者を擁していました。1897年に海軍司令長官及び海軍大臣となったヘルマン・フォン・スパウン大将(Hermann von Spaun)は、1904年まで在任し、海軍の拡充に最大限の努力を払いました。
  フォン・スパウン大将の後任ルドルフ・モンテクッコリ中将(Rudolph Montecuccoli)は、1904年に就任し、海軍の拡張と近代的な艦艇の建造を進めました。彼らの後ろ盾として尽力したのが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥である、フランツ・フェルディナンド皇太子(Franz Ferdinand)でした。

  1908年2月20日、モンテクッコリ海軍大臣は、18,000t〜19,000tの新型戦艦の建造を発表しました。この計画は準ド級戦艦の計画でしたが、その後、イタリアがド級戦艦ダンテ・アリギエーリを起工した事実が判明したため、ド級戦艦に計画が変更されました。
  設計を担当したのは、ジークフリート・ポッパー造船官(Siegfried Popper)でした。彼は1893年〜1911年の間に4級の主力艦の設計を担当した造船官で、国際的にも高い評価を得ていました。
  ポッパーは1907年に引退していましたが、新戦艦の設計のために現役復帰しました。

  新戦艦の基本計画は、建造中のイタリア海軍の戦艦ダンテ・アリギエーリ(30.5cm三連装砲塔4基搭載)に対抗可能な戦力を持つことを目標に計画されましたが、ポッパーの最初の設計案は、大きすぎて建造費用が負担しきれないという理由で否定されました。
  その為、よりコストの低い小型の船型が検討されましたが、これが後に艦のトップヘビーと復元力の不足の原因となりました。
  設計途中の1909年4月、同盟国のドイツより、ドイツ皇帝の命令により、カイザー級戦艦の設計情報が送られてきました。これには優秀なドイツ式の水中防御などの情報が含まれていましたが、時間的制約もあり、設計上顧みられることはありませんでした。

  最終的な設計案は、1909年の4月27日にまとまりました。これが、ヴィリブス・ウニーティス級戦艦となりました。
  しかし、ハンガリー議会が、計画された4隻の内、1隻をハンガリー領内で建造することを要求し、それがかなえられない場合、全ての艦の予算の通過を拒否すると発表したため、1隻はハンガリー領内のフューメのダニューブ造船所で建造されることになりました。しかし、その論争の為に、この艦―戦艦セント・イシュトヴァーン―の起工は遅れることとなりました。また、ダニューブ造船所に、大型艦艇建造の経験が無いことが、後に災いの元になりました。
  一方、オーストリア領内のスタビリメント・テクニコ/トリエステ造船所で建造予定の3隻についても、問題が発生していました。1910年、スタビリメント・テクニコ/トリエステ造船所では、準ド級戦艦ラデッキー級の竣工が近づき、工期のとぎれに伴い、熟練工の解雇が予定されたからです。 その為、モンテクッコリ海軍大臣は、新戦艦2隻の建造を議会に提案しましたが、拒否されました。彼は非常の手段として、議会の承認を得ずに、新戦艦2隻の建造を、1910年、スタビリメント・テクニコ/トリエステ造船所に発注しました。
  最終的に、新戦艦4隻の建造予算は1911年に、フランツ・フェルディナンド皇太子の尽力により議会を通過して成立しました。
  その後、1913年2月、モンテクッコリ提督の後任にアントン・ハウス大将(Anton Haus)が就任しました。ハウス大将の元で、ド級戦艦16隻の整備を目指し、ド級戦艦4隻建造の予算が1914年5月に成立しましたが、第一次世界大戦により起工されずに終わりました。


◎特徴
・艦型
  ヴィリブス・ウニーティス級戦艦は、イタリアのダンテ・アリギエーリとほぼ同排水量、同武装を備えた戦艦でした。しかし、幅及び吃水はほぼ同じものの、全長は16m程短く、コンパクトな船体に重武装、重装甲を備えた形になりました。
  これは建造予算の制約などによるものですが、結果的にかなりトップヘビーな設計となり、後の戦艦セント・イシュトヴァーン及び戦艦ヴィリブス・ウニーティスの喪失の原因の一つとなりました。
  船体強度も不足気味であり、砲熕公試中に主砲塔下の二重底の鋲接が外れて、補強が必要になったこともありました。
  また、船体の大きさの制限は高速の発揮を妨げ、中速戦艦として完成しました。
  船型は平甲板船型で、30.5cm三連装主砲塔は、艦の前後に2基ずつ背負い式に配置されました。これはイタリア戦艦ダンテ・アリギエーリに比べると近代的であり、首尾線火力に勝る点で優れた配置でしたが、トップヘビーの原因にもなりました。
  副砲は、ケースメイト配置とされ、舷側上縁に一列に配置されました。

・武装
  この艦に装備された全ての砲は、ピルゼンのスコダ社で製造されました。
  主砲には、30.5cm45口径 K10三連装砲塔4基が装備されました。最大仰角20度、最大俯角4度、砲口初速800m/s、射程25,000mの性能を誇る優秀な砲でした。
  砲弾重量は450kgに達し、外国の12インチ砲を凌ぐ威力を持っていました。(イギリス30.5cm45口径砲弾850ポンド―385.9kg―、ドイツ30.5cm50口径砲弾390kg)
  ただ、三連装砲塔であるにかかわらず、揚弾筒は各砲身の間に1基ずつの計2基であり、内1基が砲身2門への給弾を担当していました。
  副砲には、15.2cm50口径 K10単装砲12門が片舷6門づつ、ケースメイトに装備されました。最大仰角15度、最大俯角6度、砲口初速880m/s、砲弾重量45.5kgの性能でした。
  水雷艇撃退用には、66mm50口径 K10単装砲18門が装備されました。最大仰角20度、最大俯角10度、砲口初速880m/s、砲弾重量4.5kgの性能でした。
    1914年より、66mm50口径 K10単装単装砲は12門に減らされ、代わりに2、3番主砲塔上に66mm50口径 K10単装対気球砲が2、3番主砲塔上に3〜4門装備されました。最大仰角90度、最大俯角5度、砲口初速850m/s、砲弾重量4.5kgの性能でした。
  これは、列強海軍の中でも、高角砲を早く装備した例です。
  その他、47mm44口径単装速射砲が2基、8mm機関銃が3基装備されました。
  水雷兵装は、53.3cm魚雷発射管が4門(艦首水中発射管1門 艦尾水中発射管1門 第二主砲塔後部両舷に1門づつ)装備されました、魚雷数は14発でした。
  それ以外に、陸戦用に、66mm18口径砲2門を装備していました。

ヴィリブス・ウニーティス級戦艦 装甲配置図
ヴィリブス・ウニーティス級戦艦 装甲配置図。
一番下の図の、舷側炭庫のいくつかの空白は、15.2cm副砲の弾庫。
「Линкоры <<ВИРИБУС УНИТИС>>」 出版社 Морская коллекчияより引用。


ヴィリブス・ウニーティス級戦艦 セント・イシュトヴァーン機関配置
ヴィリブス・ウニーティス級戦艦 セント・イシュトヴァーン機関配置。
缶室が縦隔壁で細分化されていないのが分かる。右下の矢印が1918年6月10日のセント・イシュトヴァーンの被雷箇所。
舷側炭庫のいくつかの空白は、15.2cm副砲の弾庫。
「Marine-Arsenal SPECIAL BAND 8 Tauchgang um das K.u.K Schlachtschiff SZENT ISTVAN」 出版社 PODZUN-PALLAS-VERLAGより引用。


・防御
  舷側水線部ほぼ全域にわたる、重厚な装甲防御が本級の特徴でした。
  装甲には、垂直防御にクルップ浸炭甲鈑(KC)、水平防御にクルップ甲鈑(K 非炭和)、ジーメンス・マルティン甲鈑(SP 恐らく非炭和)が使用されました。
  主舷側装甲は主砲塔間全幅に及び、280mmのKCで防御されていました。
  艦首及び艦尾の舷側装甲は、150mm〜130mmのKCで、特に艦首は舷側中段まで重厚に防御されていました。
  舷側中段及び副砲ケースメイト180mmのKCで防御されており、ケースメイト内部は隔壁で個別に区切られていました。

  主砲塔は、前楯傾斜200mmKC、側面280mmKC、天蓋傾斜部150mmKC、天蓋平坦部60mmKで防御されていました。
  主砲塔のバーベットは280mmKCで防御されていました。
  バーベット下部は一番及び四番主砲塔は280mmKC、二番主砲塔は160mmKC、三番主砲塔260mm〜230mmKCでした。
  主砲塔バーベットの最下部(装甲甲板上)は100mm〜80mmKで防御されていました。

  甲板防御は、上甲板及びケースメイト上面が装甲15mmSP+甲板15mmでした。
  防御甲板が平坦部が装甲18mmSP+甲板18mm、舷側傾斜部が30mmSP+甲板18mmでした。
  シタデル前後の下甲板は、艦首25mmSP+甲板18mm、艦尾30mmSP+18mmで防御されていました。

  シタデル前部横隔壁は下部180mmKC、上部120mmKC、シタデル後部横隔壁は上部下部共に180mmKCでした。

  司令塔は、前部司令塔が上部側面280〜250mmKCが下部側面150mmKCが天蓋30mmSP+甲板30mm、司令塔上の測距塔旋回部が側面30mmK、上面30mmSPでした。
    防御甲板への交通筒150mmKCで防御されていました。
  後部司令塔は上部側面250mmKC、下部側面120mmKC、天蓋50mmSP、測距塔旋回部が側面30mmK、上面30mmSPでした。
  防御甲板への交通筒は、150mmKCで防御されていました。
  副砲用司令塔は側面180mmKC、上面40mmSP、測距塔旋回部が側面30mmK、上面30mmSPでした。

  水雷防御縦壁は25mmSP+甲板25mmでしたが、位置は舷側に近く、結果的に水中爆発に対しては防御力が不十分でした。
  艦底部は甲板25mm+甲板25mmの2枚重ねで防御されていました。これは、前級のラデッキー級戦艦より採用された構造で、オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍戦艦の特徴でした。

・水中防御
  水中防御は、ヴィリブス・ウニーティス級戦艦の最大の欠陥でした。主砲塔間に全通した水雷防御縦壁を持つものの、位置は舷側に近いので、水中防御層の幅が狭く、水中爆発に対して有効ではありませんでした。
  同時期の他国のド級、超ド級戦艦に比べると、水中防御に遜色があったと言えるでしょう。
  また、設計自体にトップヘビー、復原性不足の問題があり、水中損害による傾斜に脆弱でした。
  加えて、水中防御層の直後、炭庫の中(上部)に15.2cm副砲の弾庫があり、セント・イシュトヴァーンの喪失の場合、これが缶室への浸水の経路となりました。
  注排水能力など、ダメージコントロール能力は、前級のラデッキー級戦艦より強化が計られていました。本級も補助機械室には排水ポンプが備えられ、艦の注排水機能は相応の能力があり、高いダメージコントロール能力を持っていました。しかし、上記の欠点により、有効な働きが阻害されました。

  ハンガリーのダニューブ造船所建造の戦艦セント・イシュトヴァーンでは、造船所に大型艦艇建造の経験が無く、技術不足と工員の技倆未熟が大きな災いとなりました。水密隔壁の鋲接が不良で、浸水時に水圧で外れ、浸水の拡大が止めようが無くなるという事態が発生したのです。これは、艦の喪失の大きな原因となりました。

ヴィリブス・ウニーティス級戦艦 断面図
ヴィリブス・ウニーティス級戦艦 断面図。舷側に近い水雷防御中壁と、缶室の間の炭庫上部にある、15.2cm副砲弾庫に注目。
「Marine-Arsenal SPECIAL BAND 8 Tauchgang um das K.u.K Schlachtschiff SZENT ISTVAN」 出版社 PODZUN-PALLAS-VERLAGより引用。


・機関
  缶室は6缶ずつ、前後2つの缶室に分けられていました。缶は1缶室につき横3基ずつ2列に配置されていました。缶室は当時のドイツ戦艦のように縦隔壁で細分化されておらず、浸水に脆弱でした。
  機械室は第2缶室の後方にあり、中心隔壁で区切られた2室にタービンが1セットづつ装備されていました。

  缶はオーストリア建造のヴィリブス・ウニーティス、テゲトフ、プリンツ・オイゲンではヤーロー缶12基、ハンガリー建造のセント・イシュトヴァーンではバブコック・ウィルコックス缶12基でした。
  発生馬力は25,000馬力でした。
  主機及び軸数は、オーストリア建造のヴィリブス・ウニーティス、テゲトフ、プリンツ・オイゲンはパーソンズタービン2基、4軸推進でした。
  ハンガリー建造のセント・イシュトヴァーンでは、AEG−カーチスタービン2基、2軸推進でした。
  速力は計画20ノット、公試では20.3ノットを発揮しました。
  燃料搭載量は満載で石炭5,600tで重油162tでした。
  航続距離は10ノットで4,200浬でした。


◎戦歴
・ヴィリブス・ウニーティス
  建造 スタビリメント・テクニコ/トリエステ造船所 1910年7月24日起工、1911年6月20日進水、1912年10月5日竣工。
  第一艦隊第一戦隊に配属。1916年、戦艦テゲトフよりオーストリア・ハンガリー二重帝国海軍旗艦の座を譲り受け、1918年まで旗艦を務めました。

・テゲトフ
  建造 スタビリメント・テクニコ/トリエステ造船所 1910年5月24日起工、1912年3月31日進水、1913年7月14日竣工。
  第一艦隊第一戦隊に配属。第一次世界大戦開戦時、オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍艦隊旗艦。1916年まで旗艦の座にあり、その後、旗艦を戦艦ヴィリブス・ウニーティスに譲りました。

・プリンツ・オイゲン
  建造 スタビリメント・テクニコ/トリエステ造船所 1912年1月16日起工、1912年11月30日進水、1914年7月8日竣工。
  第一艦隊第一戦隊に配属。

・セント・イシュトヴァーン
  建造 フューメ ダニューブ造船所 1912年1月29日起工、1914年1月17日進水、1915年11月17日竣工。
  ダニューブ造船所の技術未熟により、他の艦に比べ、建造に時間が掛かり、第一次世界大戦開戦後の竣工となりました。
  第一艦隊第一戦隊に配属。


  第一次世界大戦勃発次のオーストリア・ハンガリー二重帝国は、世界第7位の海軍力を保有していました。艦隊司令長官はアントン・ハウス大将で、ド級戦艦3隻、準ド級及び前ド級戦艦12隻、装甲巡洋艦3隻、軽巡洋艦7隻、駆逐艦23隻、水雷艇62隻、潜水艦6隻を保有、更に大戦中にド級戦艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、潜水艦21隻が竣工しました。

  1914年6月24日、フランツ・フェルディナント皇太子は,ボスニアで行なわれる陸軍演習視察のため、トリエステから戦艦ヴィリブス・ウニーティスに乗り込み、ダルマチア沿岸部のネレトバ川河口まで行き、汽船ダルマトに乗り換えて内陸部へ移動しました。
  1914年6月28日に皇太子夫妻は、帰途に立ち寄ったボスニアの首都サライェヴォでセルビアの民族主義者により暗殺され、これが引き金で第一次世界大戦が勃発しました。オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍は、同盟国イタリア海軍、ドイツ海軍地中海艦隊と共同で作戦を行う予定でした。しかし、イタリアの中立宣言により、イタリア海軍との共闘の可能性はなくなりました。
  ハウス大将は汽船ラクロマでポーラ軍港を立ち、戦艦テゲトフと軽巡洋艦アドミラル・スパウンを従えネレトバ川河口へ向かいました。
  皇太子の遺体は汽船ダルマトでネレトバ川河口に運ばれ、戦艦ヴィリブス・ウニーティスによってトリエステに移送されました。

  次のヴィリブス・ウニーティス級戦艦の作戦行動は、ドイツ地中海艦隊−巡洋戦艦ゲーベン、軽巡洋艦ブレスラウ ヴィルヘルム・フォン・ゾーヒョン少将(Willhelm von Souchon)指揮−の救援の為に行われました。
  8月7日、ハウス大将は戦艦ヴィリブス・ウニーティス級3隻(ヴィリブス・ウニーティス、テゲトフ、プリンツ・オイゲン)、準ド級戦艦ラデッキー級3隻(ラデッキー、エルツヘルツォーク・フランツ・ フェルディナント、ズリーニィ)、装甲巡洋艦セント・ゲオルグ、軽巡洋艦アドミラル・スパウン、駆逐艦6隻、水雷艇13隻を率いてポーラ軍港よりアドリア海南部に出撃、そこでドイツ地中海艦隊と合流する予定でした。
  結局この行動は、ドイツ地中海艦隊が行き先をポーラ軍港からコンスタンティノープルに変更したことにより中止され、艦隊はポーラ軍港に引き上げました。

  その後、イギリス、フランスを中心とする連合国海軍がオトラント海峡を封鎖したため、大戦中、海軍の作戦海域はアドリア海に制限され、主要な任務はダルマチア沿岸部の保護が中心となりました。
  1915年5月23日、イタリアはオーストリア・ハンガリー二重帝国に宣戦を布告し、連合国に参加、オトラント海峡の封鎖に加わりました。
  同日、ハウス大将は戦艦12隻、巡洋艦5隻、駆逐艦17隻、水雷艇20隻よりなる海軍主力を率いて出撃しました。翌24日、戦艦ヴィリブス・ウニーティス級3隻(ヴィリブス・ウニーティス、テゲトフ、プリンツ・オイゲン)、準ド級戦艦エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント、前ド級戦艦エルツヘルツォーク・カール級3隻(エルツヘルツォーク・カール、エルツヘルツォーク・フリードリヒ、エルツ ヘルツォーク・フェルディナント・マックス)、前ド級戦艦ハプスブルク級(ハプスブルク、アルパード、バーベンベルク)、駆逐艦4隻、水雷艇20隻は、アンコナ沖に進出、アンコナに砲撃を実施しました。
  ハウス大将は戦艦ハプスブルクの艦上からこの作戦を指揮しました。

  その後、主力艦部隊は、主敵であるイタリア戦艦部隊の活動が全く不活発な為、軍港で待機している事が多く、艦隊現存主義による士気の低下が発生して行きました。
  その為、オーストリア側の主要な海軍作戦は、巡洋艦以下の小型艦艇と潜水艦によるオトラント海峡封鎖艦隊への攻撃が主体になりました。

  海峡を封鎖している連合国の艦艇は、オーストリア軽快部隊及びオーストリア潜水艦部隊の攻撃目標となりました。有名な指揮官としては、ヴィテーズ・ナジバーニャイ・ホルティ・ミクローシュ大佐(Vitéz Nagybá nyai Horthy Miklós 後に少将)、潜水艦部隊のゲオルグ・フォン・トラップ男爵少佐(Georg von Trap)がいました。

  1917年2月8日、ハウス大将が戦艦ヴィリブス・ウニーティス艦上で病死したことにより、海軍はより活発な行動を取るようになります。
  その頃、海軍内に民族主義が台頭し始め、1918年2月には、カッタロで、装甲巡洋艦セント・ゲオルグなどに水兵の反乱が起こりましたが、鎮圧されました。その為、海軍の人事刷新が行われ、ホルティ少将が新しい艦隊司令長官となりました。ホルティ少将は、アドリア海の敵艦隊と、オトラント海峡封鎖艦隊への攻撃を企図しました。
  最初は駆逐艦等で襲撃が行われ、部分的な成功を収めましたが、連合国側の損害は速やかに補充されました。
  その為、1918年6月、戦艦部隊を使用した襲撃が計画されました。
  ホルティ提督はヴィリブス・ウニーティス級戦艦4隻を含む主力部隊を率い、オトラント海峡の封鎖線の攻撃に出撃しました。艦隊は複数に分けられていました。戦艦テゲトフ、戦艦セント・イシュトヴァーンを含む艦隊には、駆逐艦1隻、水雷艇6隻が護衛に付いていました。戦艦セント・イシュトヴァーンは機関のオーバーヒートにより、艦隊から遅れがちでした。この艦隊は、カッタロ軍港への回航途中の6月10日午前3時30分、南アドリア海のプレムダ岬付近で、アンコナの基地から出撃して哨戒を行っていたイタリア海軍魚雷艇部隊、ルイジ・リッツォ大尉(Luigi Rizzo)の指揮する魚雷艇MAS-15、アオンツォ少尉の指揮するMAS-21の攻撃を受けました。
  ルイジ・リッツォは、平時はアドリア海通いの商船乗りでしたが、開戦後、イタリア海軍に身を投じました。1917年12月10日、ルイジ・リッツォ中尉(当時)はMAS2隻でトリエステのムーチャ港の港口防御を突破、MAS-9を指揮して、モナーク級海防戦艦ヴィーンを撃沈し、更に機銃で防波堤上の監視兵の掃射までやってのけました。同時に同行したMAS-13が海防戦艦ブダペストを攻撃していますが、これは失敗しています。
  更に1918年2月10日夜から11日朝にかけての、コルテラツォ伯コンスタンツァ・チアノ大佐が指揮するMAS艇部隊3隻による、ブカリ湾停泊のオーストリア艦艇襲撃にも参加しました。この夜襲は入り口にポーラ軍港がある、フューメ水道を突破して行われました。
  ちなみに、この夜襲には詩人ガブリエル・ダヌンチオも参加し、「ブカリ戦」を後に著しています。

MAS-15及びMAS-21 艇型図
MAS-15及びMAS-21 艇型図
排水量12.3t 全長16m 全幅2.63m 深さ1.2m
主機械 イゾッタ・フラスキニガソリンエンジン2基 450馬力 隠密航行用電動機2基 10馬力
速力 24ノット 電動による隠密航行時 4ノット
武装 45cm魚雷落射機2基 魚雷2発 6.5mm機関銃2〜3門 爆雷4発
乗員 8名
「Marine-Arsenal SPECIAL BAND 8 Tauchgang um das K.u.K Schlachtschiff SZENT ISTVAN」 出版社 PODZUN-PALLAS-VERLAGより引用。


  MAS-15の放った45cm魚雷1発または2発は、戦艦セント・イシュトヴァーンの右舷に命中しました。
  MAS-21の放った45cm魚雷は、1発は発射に失敗、1発は戦艦テゲトフに命中しましたが不発でした。
  リッツォ大尉は追撃する駆逐艦の鼻先に爆雷を投下し、追撃を振り切ってアンコナに帰投しました。

  リッツォ大尉は、これらの戦功によりサヴォイア騎士十字章を授与され、その後少佐に昇進、1923年5月に改めてイタリア軍最高位の勲章、戦功勲章金章も授与され、1936年には少将としてエチオピア戦争に参加、その名声はイタリア海軍史の金字塔として伝えられています。

  戦艦セント・イシュトヴァーンは右舷の前後2缶室の間の隔壁付近に被雷しましたが、当初損害は軽微だと思われました。復原性の不足により発生した初期の傾斜は、補助機械室のポンプによる排水により復旧されると思われました。
  しかし、不幸なことに、水防隔壁の鋲接の不良により、鋲接が次々と外れて浸水が拡大し、後部缶室に浸水、傾斜は10度に増加しました。
  艦長は艦を停止し、前部缶室の蒸気を排水動力に回すよう命令しました。これにより、1時間6,000tの排水が可能になりましたが、浸水の拡大は止まらず、前部缶室と15.2cm砲弾庫、主砲弾庫にも浸水しました。
  艦を救うために、主砲を左舷に旋回させ、重量物を移動させるなどの対策を取り、戦艦テゲトフにより曳航が試みられましたが、試みは全て失敗しました。結局、6時5分、戦艦セント・イシュトヴァーンは転覆し、6時12分に沈没しました。
  被雷から沈没までの時間が長かったのは、艦のダメージコントロール能力の高さと、ダメージコントロールに従事した兵員の勇敢さによるものでした。これにより、死者は補助機械室で排水に携わっていた人員を含む、89名に止まりました。

  戦艦セント・イシュトヴァーンの不本意な損失は、ダニューブ造船所と、設計者であるジークフリート・ポッパーとフリッツ・ピッツィンガー(Friz Pitzinger)への非難を引き起こしました。
  これに対し、ポッパーは水雷防御縦壁を支えるスチフナー(防撓材)の強度が不足していた可能性を指摘しました。
  ダニューブ造船所側での調査の回答は、鋲接接手の水密は調査したものの、水密隔壁の水圧試験は実施していないという内容でした。
  また、ダニューブ造船所による大型船の建造経験の不足も、艦の喪失の原因の一つとされました。鋲の加熱の不適切、鋲接時の鋲打ちの打ち過ぎが、鋲接の強度不足の原因とされました。
  しかし、艦の喪失の原因には、設計に起因する要因―艦型の過小、それによるトップヘビー―がかなりの部分に関与していました。本来造船官達が示した艦の原案は、もっと大きな艦型だったのですが、結局それが議論に上ることはなく、造船官達を擁護する者はいませんでした。

  戦艦ヴィリブス・ウニーティスの運命はより数奇なものでした。
  戦艦ヴィリブス・ウニーティスは第一次世界大戦の休戦直前、オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊により、新国家ユーゴスラヴィアの国民議会に分配され、1918年10月31日、ポーラ軍港にて戦艦ユーゴスラヴィアと改名されました。
  オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍軍人は下艦し、艦はユーゴスラヴィア人に引き渡され、艦長ヤンコ・ヴコヴィッチ・デ・ポドカペルスキ大佐(Janko Vukovic de Podkapelski ポトカペルスキの可能性もあり)が着任しました。艦は祝賀ムードに包まれ、少しの警戒態勢も取られていませんでした。
  その深夜、2人のイタリア海軍士官ラファエレ・ロセッティ技術少佐(Raffaele Rossetti)とラファエレ・パオルッチ中尉(Raffaele Paolucci)により操縦された人間魚雷ミニャッタ(Mignatta 蛭の意)が、母艇の水雷艇を発進しました。この人間魚雷には、時限発火式の200kgの炸薬の付いた爆薬が2発装備されていました。
  二人は何とかポーラ軍港の防材を乗り越え、11月1日午前5時30分、爆薬を戦艦ユーゴスラヴィアの船底に仕掛けました。
  2人は脱出を計る際、戦艦ユーゴスラヴィアの乗員に見つかり、艦上に引き上げられました。当初、二人は艦内の牢に閉じこめられそうになりましたが、艦長の計らいにより、紳士的な待遇を受けました。その際、2人は艦長に面会し、15分後に機雷が爆発することを告げました。
  乗員は艦を捨てて脱出しましたが、艦の規律は無きに等しく、全く統制が取れていない状態でした。
  午前6時28分に爆薬が爆発し、艦は15分以内に沈没しました。艦長を含む400名の乗員が犠牲となりました。
  ロセッティ技術少佐とパオルッチ中尉は、艦の沈没前に海に飛び込み、ユーゴスラヴィア側の救助艇に奇跡的に救助され、捕虜となりました。その身柄は5日後、ポーラ軍港を占領したイタリア軍により解放されました。
  船体の残骸は、1920年から1930年の間に解体されました。

  戦艦プリンツ・オイゲンは、第一次世界大戦終結後、ツーロンでフランス海軍に引き渡されました。艦は使用できる砲や装甲などの資材を全てはぎ取られた後、水中爆発のテストや空爆のテストに使用されました。最終的には、1922年6月28日、戦艦ブルターニュ、フランス、ジャン・バール、パリの標的艦として沈没しました。取り外された砲の何門かは第二次世界大戦において、フランスまたはドイツの手により、海防砲台として使用されたとされています。
  戦艦テゲトフは1919年、イタリアに分配されましたが再就役はせず、1924年から1925年にかけて、ラ・スペチアで解体されました。


◎総論
  オーストリア・ハンガリー二重帝国は多民族国家であり、その海軍もまた多民族で構成されていました。第一次大戦中、海軍は可能な限り活動しましたが、1918年2月にはカッタロで水兵の反乱が起こり民族主義が台頭しました。
  その後11月にはハプスブルクの君主制が崩壊して帝国は消滅し,また大戦の敗北によりオーストリアは海に面した領土を失い、長い歴史を持つオーストリア外洋海軍も、ドナウ川船艇隊を残して消滅しました。

  ヴィリブス・ウニーティス級戦艦は、オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍が最初に完成させたド級戦艦であり、最後に完成させた戦艦でもありました。ド級戦艦としては強力な戦闘力を持ち、重厚な装甲防御を備えましたが、時代は超ド級戦艦にさしかかり、既に時代遅れになりつつありました。
  また、予算の制約により、船型を過小に制限された上、重兵装、重装甲を要求されたため、トップヘビーで復原性に欠ける設計となりました。
  建造発注過程では、国内政治の問題により、艦の建造自体に制約を受けかけました。これは一部個人の献身的な努力で回避されましたが、海軍政策上、異例なことと言っても良いでしょう。また、政治的配慮により大型船建造の経験に欠けるハンガリーのダニューブ造船所に一艦を発注せざるを得なかったのも問題でした。この艦、戦艦セント・イシュトヴァーンは、ハンガリーの守護聖人の名を戴き、ハンガリー人の誇りになったものの、結局造船技術の未熟による欠陥により失われてしまいました。

  第一次世界大戦の終結により、オーストリアの外洋海軍は消滅し、ドナウ川船艇隊を残すのみとなりました。しかし、そこにはかつての栄光の歴史が引き継がれていることは忘れてはならないと思います。


◎参考文献
・「WARSHIP VOLUME U」The Viribus Unitis class 出版社 CONWAY
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAY
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1906-1921」 出版社 CONWAY
・「Marine-Arsenal SPECIAL BAND 8 Tauchgang um das K.u.K Schlachtschiff SZENT ISTVAN」 出版社 PODZUN-PALLAS-VERLAG
・「THE WORSLD’S WORST WARSHIPS」 出版社 CONWAY
・「ÖSTERREIHCS KRIEGSMARINE 1948-1918」 出版社 VERLAG DAS BARGLAND-BUCH
・「Battleships of World War T」 出版社 Arms & Armour Press
・「Линкоры <<ВИРИБУС УНИТИС>>」 出版社 Морская коллекчия
・世界の艦船別冊NO.377「近代戦艦史」 出版社 海人社
・「ハプスブルク家かく戦えり―ヨーロッパ軍事史の一断面―」 出版社 錦正社
・「世界の魚雷艇」 出版社 舟艇協会出版部
・「死闘の海 第一次大戦海戦史」 出版社 新紀元社


  ヴィリブス・ウニーティスの艦名の艦名の由来につきましては、本ホームページからもリンクさせていただいている、大名死亡様のホームページ、「Die Webpage von Fürsten Tod 〜討死館〜」を参考にさせていただいております。
 詳しくは、次のリンクをご参照下さい。

13 Hahnenrippen

  また、戦艦ユーゴスラヴィア(元戦艦ヴィリブス・ウニーティス)艦長Janko Vukovic de Podkapelskiの名前の読み方についても、大名死亡樣に御教示いただきました。


  1917年12月10日のリッツォ中尉(当時)の海防戦艦ヴィーンの撃沈及びリッツォのその後の経歴、ヴィリブス・ウニーティスを沈めた人間魚雷Mignattaの日本語読み、及びロセッティ技術少佐とパオルッチ中尉の救助の関係の記述は、マイミクシィにさせていただいております、よしぞう(maro')樣(「イタリア軍入門 1939〜1945 第二 次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち」 出版社 イカロス出版の二人の著者の一人 吉川和篤樣)の御指摘によりました。ありがとうございます。


  また、一次大戦開戦後のオーストリア海軍の戦況につきまして、世界史板のHAUS樣の書き込みを参考にさせていただきました。遅れてのご紹介になって申し訳ありません。




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